2001/1/7
いつも思うこと
扉を開けると、その先に何か自分にとって良からぬ事が待っている。
そんな風に考えることがよくある。
例えば、『泥棒が隠れている』とか、『誰か家族が倒れている』とか、
別に人間だけじゃない。
例えば、『便座をあけるとウ○コがまだ流れていなかった』とか、
『引き出しを開けると中にゴキブリの死骸がある、もしくは、生きていて、
俺に向かって飛んでくる』など。
なんとなく、マーフィーの法則に通ずるマイナス思考のものだが、
俺だけかな?
2001/1/24
先日、新聞で公共事業の見直しについての記事を読んで思った事がある。
それは、年寄りは保守的で彼らに任せていては、
何事もなされないまま終わってしまうということである。
今、日本では無駄な公共事業を見直すべきであると言った論調が盛んで、
全部止めてしまえと言った印象さえ受ける。
聞こえてくる声は、道路の建設などの公共事業を『そんなもの必要ない』
『きれいな自然を守らなければならない』等、比較的年齢層が高い。
果たして若者の声はどうであろうか。聞こえてこない。
『道路もないような田舎に誰が残ると言うのか』
確かに自然は残さなければならない。そんな事は分かってる。でも、残せば
残すほどいいのだろうか。
もっと現実的に抱えている問題を捉え直し、一方的な雰囲気を押し返してみたい。
2001/1/26
医療ミスで思うこと
最近、医療ミスによる事故が増えており、場合によってはそれは患者の
死を意味する。よって、ミスした側である医者や看護婦は
それなりの責任をとるべきであるという論調が盛んである。
しかし、少し考えてみたい。仕事上のミスが
実刑判決にまで至ってしまうとは、すこしその責任が重過ぎやしないか。
つい先日も、点滴をする際のミスで訴えられた看護婦二人が
実刑判決を言い渡された。これを当然だとは思えないのである。
確かに、命というのは値段がつけられるわけではないので、
その責任もお金では解決できないのかもしれない。
故意的にではないとはいえ、それなりの責任はやはり自分が背負うものである
とは思う。私が思うには、実刑以外にも何か違った責任のとり方が
あるのではないかということだ。
例えば、銀行の一般職がお客さんの命の次に大事な、もしくはそれ以上の
預金を何かの手違いでドロンしてしまったとする。
もちろんそのお客さんは銀行やその担当者を訴えるが、
実刑にはならないであろう。お金さえ払えばすむことである。
ちょっとのミスが裁判になっても刑務所に入ることはないであろう。
しかし、看護婦の場合はなぜか違う。手錠ものである。
命は金には代えられないので、臭い飯を食う羽目になる。
だからといって、普段楽な仕事であったり、そのリスクに見合う給料を
もらっているわけではない。
少し不公平ではないか。命に値段がついていれば、看護婦も
お金を払うだけですむんだが。何かがおかしい。
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